気候の歴史探訪

新生代初期の地球温暖化:暁新世-始新世熱極大期(PETM)のメカニズムと古生態系への影響

Tags: PETM, 古気候学, 地球温暖化, 新生代, 生態系変動, 炭素循環

はじめに

地球の歴史において、気候は常に変動を繰り返してきました。その中でも、約5600万年前に発生した「暁新世-始新世熱極大期(Paleocene-Eocene Thermal Maximum, PETM)」は、地質学的なタイムスケールでは極めて短期間に、地球全体が急激に温暖化した特異なイベントとして知られています。この期間には、世界の平均気温が数千年から数万年という短期間で5~8℃も上昇したと推定されており、現在進行中の地球温暖化現象を理解する上でも重要な手がかりを提供しています。

本記事では、このPETMがどのような現象であったのか、そのメカニズムと炭素循環への影響、そして当時の古生態系にどのような変化をもたらしたのかについて、最新の科学的知見に基づき解説します。

暁新世-始新世熱極大期(PETM)とは

PETMは、約5600万年前、新生代の暁新世と始新世の境界付近で発生した、地球規模の急激な温暖化イベントです。このイベントは、深海堆積物コアや陸上地層に残された記録から、世界中で確認されています。

主な特徴としては、以下の点が挙げられます。

これらの特徴は、PETMが単なる自然な気候変動の範囲を超えた、極めて大規模な炭素放出イベントであったことを物語っています。

PETMの主要なメカニズムと炭素循環

PETMの原因については、長年にわたり様々な仮説が提唱され、活発な議論が続けられています。最新の研究成果によれば、複数の要因が複合的に関与した可能性が高いと考えられています。

炭素放出源の候補

PETMの急激な温暖化を引き起こした主要因は、短期間に大量の炭素が大気中に放出されたことであると広く認識されています。主な炭素放出源の候補としては、以下のようなものが挙げられます。

これらのメカニズムが単独で、または連続的・複合的に作用することで、正のフィードバックループが働き、温暖化がさらに加速されたと考えられています。例えば、温暖化がメタンハイドレートの分解を促し、それがさらなる温暖化を引き起こす、といった連鎖反応です。

炭素循環への影響

PETM中に放出された膨大な量の炭素は、地球の炭素循環に甚大な影響を与えました。大気中のCO2濃度は急激に上昇し、それが温室効果ガスの増大をもたらして地球規模の温暖化を引き起こしました。また、海洋へと溶け込んだCO2は、炭酸システムを変化させ、海洋のpHを低下させる「海洋酸性化」を引き起こしました。深海堆積物に残された炭酸塩の溶解痕跡は、この海洋酸性化の直接的な証拠として利用されています。

古生態系への影響と生物の応答

PETMは、地球の気候システムだけでなく、当時の生物多様性や生態系にも大きな影響を与えました。急激な環境変化に適応できた生物もいれば、絶滅に至った生物も存在します。

海洋生態系

PETMは特に深海性生物に壊滅的な影響を与えました。

陸上生態系

陸上生態系においても、PETMは劇的な変化を引き起こしました。

これらの生物学的応答は、気候変動が生物進化と多様性に与える影響の大きさを物語っています。

PETM研究の進化と最新の知見

PETMに関する研究は、地質学、古生物学、海洋学、気候学など、多様な分野からのアプローチによって進化を遂げてきました。

多角的な研究手法

モデリング研究と未解明な点

近年では、地球システムモデルを用いたシミュレーション研究により、PETMのメカニズムや影響を再現する試みが進められています。これらのモデルは、特定の炭素放出シナリオがPETMの特徴的な気候応答を引き起こし得るか検証する上で貴重な手段となります。

しかしながら、PETMについては未解明な点も依然として多く残されています。例えば、大量の炭素放出の正確なトリガーが何であったのか、メタンハイドレートと火山活動の相対的な寄与度、そして温暖化がどのようにして終息し、気候システムが回復していったのかといった詳細については、さらなる研究が求められています。

現代の気候変動研究への示唆

PETMは、地質時代における最も急速かつ大規模な地球温暖化イベントの一つであり、現代の気候変動研究にとって極めて重要な「アナログ」と見なされています。

まとめ

暁新世-始新世熱極大期(PETM)は、約5600万年前に地球を襲った急激な温暖化現象であり、その原因は大量の炭素放出、特にはメタンハイドレートの分解や大規模火山活動に起因すると考えられています。このイベントは、海洋酸性化を引き起こし、深海生態系に壊滅的な影響を与えた一方で、陸上哺乳類の急速な分散や進化を促すなど、地球の生態系に劇的な再編をもたらしました。

PETMに関する研究は、当時の気候システムの応答や生物の適応戦略を明らかにするだけでなく、現代の地球温暖化が将来的にどのような影響を地球にもたらし得るかについて、貴重な知見と警告を提供しています。未解明な点も残されていますが、今後も古気候学、地質学、生物学といった多岐にわたる分野からの探求を通じて、PETMの全貌がさらに明らかになることが期待されます。